| 生まれ:1960年代、山陰の山奥 性別:女性 現在:既婚、首都圏在住、子供なし。双極2型の急速交代型(ラピッドサイクラー)。 趣味:ピアノ、手芸、読書、音楽鑑賞、パソコンいじり 非趣味:スポーツ、外出、明るい人たちと一緒にいること 好きなもの:活字、ぷるぷるした食べ物 苦手なもの:梅干し、納豆、子供 職業:元出版社社員(編集)、現在無職。障害年金受給者(厚生2級)。 子供の頃:内気でぼーっとした子供だったらしい。いつも家で本を読んでいた。 4歳よりピアノを習う。 小学校低学年で、明るい仮面をつけることを覚える。 中学校:入学時、都市部へ引っ越し、転校。部活はブラスバンド(サックス)とコーラス(伴奏)。 昼休憩には、音楽室で女の子たちのリクエストに応えてピンクレディーの振り付けの伴奏をする毎日。 高校:一番の進学校に行くにはギリギリの成績だったので、親と大もめ。 あげく、勉強漬けで部活ができないのは嫌だと言い張って、ランクを落として合格。 高校もブラスバンドやロックバンド三昧。 ピアノの練習やレッスンも、嫌だと言いつつ絶対止めずにいたのが不思議。 進路は何も考えていなかったが、一部の音大に音楽理論科(楽理科)というのがあると知り、これに決める。 高3になってからだったので、ピアノの先生には「計画性のない人だね」と呆れられた。 東京の大学を受験したものの、それ用の勉強(下記)をしていなかったので当然浪人確定、上京、一人暮らし開始。 浪人時:音大受験には、ピアノや歌の他に、楽典や、音を聴いて書く、知らない曲をぱっと見てすぐ歌うまたは弾くなどの特殊な試験がある(理論科には他に論文読解、スコア読解、和声問題などがある)。 これらを何人かの専門の先生についてレッスンを経ないと受験レベルには達しない。 実技が多いため、受験期間は一週間くらい。 同じ程度の大学は期間を重複させているので、芸大と私学の本命、滑り止め、くらいしか受けられない。 なぜか、私学の本命だけに受かった。一番行きたいところだった。 大学:同じ専攻が3人しかおらず、出席を取る必要などない小さい大学。 サークルよりも明日の論文読解という世界で、それでもディスコ全盛だったので一応は遊んでいた。 明るく過ごすが、だんだん自分の中の明るさと暗さのバランスが取れなくなり、かなり激情型になっていた。 一人暮らしだったこともあり、人前では明るく、その分帰ると泣きわめいたり、ものを投げたり・・・。 「楽しそうにしてても、私のことなんか誰も好きじゃないんだ、あんなの嘘なんだ」・・・。 ある日バタッと倒れても「3日徹夜したせい」ということがわからず、身体と心の整合性も取れていなかった。 でも、大学は楽しく、充実していた。一生分したと思えるくらい勉強した。完璧主義的な私には合っていたと思う。 大学卒業後:音楽関係の出版社に入社。 第一志望だったので、喘息で入院中だったのを押して母とタクシーで面接に行った。 会社では、最初から一人前を要求されたが、それも楽しいと思えた。 結婚しても待遇は変わらず、男女雇用均等だった。 大学時代から、異性とつきあうようになった。 でも、自己卑下と自己嫌悪を抱えてのつきあいは、どれも長くは続かなかった。 が、今の夫はそんな私のどこがよかったのか、聞いても「全部」と言われ、結局結婚した。 夫に不満がないわけではないが、主治医も感心するくらいよくしてくれる。 性格は温厚、ついでに料理もうまい(^-^)が、金銭感覚ゼロ(泣)。 でも、私の中の何かは、治っていなかった。 そのうち、大学時代と同じように、明るい私のリバウンドがひどくなり、それが夫に向けられるようになっていった。 飲み会の後などに泣きわめき、家出し、ものを投げ、人が来るとなるとホテルに逃避・・・。 あまりのことに、夫も「こういう性格なんだろうか、結婚前と全然違う・・・」と悩んだらしい。 でもまさか病気だとは思わなかったらしく、結局何もしなかった。 結婚1年後、父が糖尿病(+躁鬱病?)によるうつで自死。 通院:96年、私はひとりで、ネットで見つけたカウンセリングに行ってみた。 カウンセラーは40分ほど話を聞いて、病気だから併設の病院で薬をもらえと言った。 医者は、「抑鬱ぎみですね・・。うつ病はもっと大変なものだから」と言い、ドグマチール(抗うつ薬)とリボトリール(抗不安薬・気分安定薬)を1年半飲まされて、30キロ以上太った。 (あとから知ったけど、ドグマチールは元々胃薬なので、太る副作用最強)。 手がふるえると言うと抗パーキンソン病薬、いらいらすると言うと抗不安薬、というふうに、副作用にはその薬、というのが続いて、いいかげんキレかけていたある日。 生理が1ヶ月に3回来た時(ドグマチールの副作用)にまたもや抗パーキンソン病薬を出されて、「ああ、もう、怖い、イヤ」。 おまけに、看護婦さんが「高い薬なので、半分に割って、あとは取っといて飲んで下さい」だと。薬って、値段で飲むものなのかあ! で、即、転院を決意。 カウンセリングはそこで続けてたけど、「性格を変えなきゃダメですね」と言ったら「そうね・・・5年はかかるけど」と言われ、やめた。それまでのカウンセリングは何だったんだ!? 転院:98年、ムックの病院リストで、家の近くにある、うつなどが得意な病院を発見。 さっそくそこへ行ってみたら、診断名は「躁うつ病」・・・・! 「うつ病はもっと大変なもの」と言った前の医師は何だったの? うつ病どころじゃないじゃないの。 そして何よりも「私の30キロをどうしてくれるー!」という気分。 驚いたことに、この二人の医者は知り合いだった(ーー;)。「何でこんな弱い薬出したのかな〜」と首をひねっていた。 でも、大体見立てが違うんだし・・・。頼むよ〜、医者〜・・・。 「薬をガーンと変えますから」と言うだけあって、気分安定薬を中心とした処方はかなり効き、感情は安定してきた。 でも、仕事の量の上下と、私の「断れない性格」「完璧主義」によって、よくなったり悪くなったりも上下してた。 そのうち、主治医に「僕も20何年精神科医やってるし、何でも躁鬱病にしちゃうと言われるんだけど、あなたみたいなのは初めての例」と言われた。 対人・対現象・対環境についての反応が、あまりにも極端なのだそうだ。それが、揺れを速く、激しくする。 大きな波もあるのだけど、その中でちりちりとはぜるように揺れ動く感情が強くある。 初めから「ラピッド・サイクリング(急速交代型)」だったようだ。 崩壊期:99年の8月、積み重なったもろもろにつぶされて、自宅静養に突入。 しかし、会社のドケチさと貯蓄の無さによって(自業自得?)、2月から復帰せざるを得ない状況に。 32条(精神病者は診療費を安くしてやるからとっとと病院に行けという条例)を知ったのも病院の掲示で、最初は抵抗があったけど、今は申請して、5%のみ支払い。 2006年4月からは、自立支援医療に変わり、1割負担、上限5000円となる。 そして、2月は誰が見てもよれよれ(しかし大きい仕事をまかされた)、3月は、医者に「4時間以上の勤務を禁ずる」との診断書を書かれる(こんな診断書書いたことないと言われた)。 で、4月から5月連休まで病休扱い。しかし、連休明けに「(出社は)ダメだね」の宣告。( ̄□ ̄;)!!。 1ヶ月ごとに診断書を書かれつつ、9月10日まで休むはめに。 何がイヤって、会社に「休みます」って言うのがイヤでイヤで。いつしか、夫に電話してもらうのが当然に。 普通の電話だってできないんだもん、しょうがない。 その後、2000年9月11日から出社許可が出た(半日だけど)。 しかし、何という会社かっ! 出たとたん、500頁の専門書をまかされ、〆切は2001年2月。 死ぬ思いで何とか仕上げて、その後うつでよろよろしていたら、夫が5月初めに入院の話を医者に出した。 一週間後、閉鎖病棟に入院、3ヶ月後の8月10日に退院。その後も休職のまま、自宅療養。 就業規則により、2001年9月から給与が4割になったので、「傷病手当金」を申請して、あと2割を補填。 暮らしていけるのか不安がよぎる。 退職:2002年の9月、給与4割の休職期間が切れた。 8月に障害厚生年金を申請するくらいの体調だったので、職場復帰はとうてい無理。もう限界。 この会社でやることはやったという気もあったし、未練もないし、9月10日で辞めることに。 しばらくは傷病手当金で何とかし、年金が下りたら、それでやっていくことにする。 その後: 2002年11月初旬に、年金裁定通知書が来た。 障害厚生年金で申請したので、3級だと思っていたら2級でびっくり。 2003年の6〜8月にも2ヶ月入院。うつによるもので、軽躁には至らず軽鬱で退院。 少し安定したと思っていたら、同年10月に実家の弟が脳内出血で倒れる。こんなに若くて(37歳)倒れるのは、脳血管の先天的異常(動静脈奇形)があったからだそう。10万人に一人の割合だそうだ。 幸い発見が早く、現在は身体的麻痺は全くないが、記憶障害・行為遂行障害が残った。新しいエピソード、今日は何日かなどが思い出せない。また、料理などの手順がわからない。 こういうのを「高次脳機能障害」と言い、枠組みは精神障害者である。私と同じく、障害厚生年金2級、手帳も2級。 母が、同年7月で医療技術職を引退したので、さぁこれからと思っていた矢先の出来事。70を過ぎて、息子のリハビリに精を出している。 私も時々帰省するが、結局何もできないまま。弟は帰るたびに確実によくなっている。私さえ健康なら、実家にしばらく滞在し、母の負担を減らせると思うのだが、今の状態では、却って負担が増えるだけ。情けない・・・。 また、父方の従兄弟が若い時から躁鬱病(双極1型)だったということを知った。 躁鬱病は体質を受け継ぐ----父も躁鬱病だったのかもしれないと思う(今はかなり確信している)。 でも、父は内科医だったせいか、糖尿病も含め、自分の治療はすべて握りつぶしてしまっていた。 「医者になりたくてなったんじゃない」と生前言っていたのを思い出す。 医者でなければ、もっと生きてくれただろうか。 日々の様子はサキの日常はこんなもん(ブログ)を見てね。プロフィールの下に、「現在の服薬状況」もあります。 追記:自宅静養で、ほぼ1年半寝たきりだったため、体力が落ちたことを自覚、軽い筋トレでジムに通うことに。 とはいえ、すぐやり過ぎる悪い癖があるので、マシンでゆっくり、 トレーナーに付いてもらうコースをとりあえず1ヶ月。脂肪体重が4キロ減った。 体育が大嫌いだった私がジム通いとは・・・自分でも信じられません。 少し軽躁気味だと自覚しているので、やりすぎないようにしなければ・・・・。 ちなみに、主治医には事後承諾だったけど、「無理しないんだよ!」と強く強く強〜く言われました。 しかし、やっぱり無理してしまい、退院後左肩を痛め、2004年の1月から整形外科通い。 これからは市民プールにしておこう。障害者割引もあるし。 今までで一番心に残った言葉: うつ病で自殺した落語家の桂枝雀のインタビュー。 「内気だから、最初は渋い落語やっとって、全然受けんかった。で、今みたいな派手なのにしてみたら大受けして・・・。 それからは、内気な自分と派手な仮面を使い分けてたら、そのうち、仮面が地にひっついて、どっちが地かわからんようになりましたわ・・・」 あげくの果てに自殺。自分を見ているようだった。 |
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